日露戦争~第一次世界大戦(明治37年~大正7年/1904~1918)
作詞 真下飛泉
作曲 三善和気
ああ我が大山元帥は
もと鹿児島の藩士にて
英雄西郷隆盛と
血を引く従弟の間柄
真や優れて早くより
スイス国に留学し
明治の四年に帰朝して
陸軍大佐となられしが
明治九年に熊本の
敬神党を討ち鎮め
翌年西南戦争には
私情を捨てて勲あり
続いて欧州各国の
兵制視察を遂げられて
やがて陸軍大臣の
重き位に就かれしが
かの日清の戦には
我が第二軍に長として
大連旅順を陥れ
威海衛をも取り給う
かくして次第に累進し
我が帝国の元帥と
衆に仰がれ給いしが
日露の戦争始まって
七月六日に遥々と
陛下の勅を畏みて
満州軍を統べん為
進んで御渡海なされたり
これより以前我が軍は
諸所の戦に勝ちを得て
今や一挙に勝敗を
決せんものと勇躍し
八月夏の末つ方
クロパトキンが死守したる
遼陽城に向かいしが
難無くここを攻め取って
十月半ばの沙河にても
戦線広き大軍を
左に右に神妙に
手足のごとく働かせ
翌年一月下旬には
黒溝台に会戦し
三月上旬奉天の
大戦争に至るまで
児玉対象諸共に
軍略智謀湧くごとく
勝算歴々たなぞこに
玉をば握る事ならで
この度こそは危うしと
汗を握れる世界をば
見事に勝ちを制しつつ
驚嘆させしも幾度ぞ
さ我将軍年既に
耳順に近き老いの身の
御国の為と言いながら
かの満州の二年や
苦労はさせじの御心か
陛下は「既に和はなりぬ
凱旋せよ」と有難き
仰せを下し給いたり
部下の将士に先立ちて
帰るは本意にあらねども
勅命さらに畏しと
奉天城を出で給う
陛下はなおも侍従をば
迎えの為に遣わされ
我が民衆も万歳を
唱えてお迎え申したり
さても陛下の御前に
立ちて戦の事々を
奉告なされし大将の
感慨いかに深からん
げにその名の大山の
揺るがぬごとき英風と
はた温厚の心情は
三つ子もお慕い申すなり
ああ陸にこの大将あり
海には東郷大将あり
並びて国の礎と
世界の上に高からん
作曲 三善和気
ああ我が大山元帥は
もと鹿児島の藩士にて
英雄西郷隆盛と
血を引く従弟の間柄
真や優れて早くより
スイス国に留学し
明治の四年に帰朝して
陸軍大佐となられしが
明治九年に熊本の
敬神党を討ち鎮め
翌年西南戦争には
私情を捨てて勲あり
続いて欧州各国の
兵制視察を遂げられて
やがて陸軍大臣の
重き位に就かれしが
かの日清の戦には
我が第二軍に長として
大連旅順を陥れ
威海衛をも取り給う
かくして次第に累進し
我が帝国の元帥と
衆に仰がれ給いしが
日露の戦争始まって
七月六日に遥々と
陛下の勅を畏みて
満州軍を統べん為
進んで御渡海なされたり
これより以前我が軍は
諸所の戦に勝ちを得て
今や一挙に勝敗を
決せんものと勇躍し
八月夏の末つ方
クロパトキンが死守したる
遼陽城に向かいしが
難無くここを攻め取って
十月半ばの沙河にても
戦線広き大軍を
左に右に神妙に
手足のごとく働かせ
翌年一月下旬には
黒溝台に会戦し
三月上旬奉天の
大戦争に至るまで
児玉対象諸共に
軍略智謀湧くごとく
勝算歴々たなぞこに
玉をば握る事ならで
この度こそは危うしと
汗を握れる世界をば
見事に勝ちを制しつつ
驚嘆させしも幾度ぞ
さ我将軍年既に
耳順に近き老いの身の
御国の為と言いながら
かの満州の二年や
苦労はさせじの御心か
陛下は「既に和はなりぬ
凱旋せよ」と有難き
仰せを下し給いたり
部下の将士に先立ちて
帰るは本意にあらねども
勅命さらに畏しと
奉天城を出で給う
陛下はなおも侍従をば
迎えの為に遣わされ
我が民衆も万歳を
唱えてお迎え申したり
さても陛下の御前に
立ちて戦の事々を
奉告なされし大将の
感慨いかに深からん
げにその名の大山の
揺るがぬごとき英風と
はた温厚の心情は
三つ子もお慕い申すなり
ああ陸にこの大将あり
海には東郷大将あり
並びて国の礎と
世界の上に高からん
PR
ブログ内検索
カテゴリー