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日露戦争~第一次世界大戦(明治37年~大正7年/1904~1918)
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敵の要害遼陽城や
固き保塁八重にも築
二十余万の兵をば集め
蟻の通わん隙間もあらず

城も固かれ多かれ兵も
やがて落さん撃ち尽くさんと
勇み勇めるますらお武夫
三手に分かれて北へと進む

中に右翼は弓張嶺の
月に銃剣揃えて迫る
敵は弾丸射下ろすのみか
岩を落として手強く防ぐ

されどついには湯河の谷に
入りて蠢く袋の鼠
かくて両断すれども敵の
左右の翼はなお張る力

尽くせ尽くせ苛てど彼の
砲火夜を日に継ぎても絶えず
かつや篠衝く大夕立に
山は煙りて攻むるに迷う

されど怯まぬ我がつわものは
やがて紅沙の嶺をば奪い
さらに大西溝辺占めて
いよよ破竹の勢い猛し

中央左翼も相連なりて
夜も眠らず攻めつつ進む
孟家房より首山保かけて
込むる硝煙飛び散る火花

戦半ばに下りし勅語
泣いて拝する士卒の心
君の御為と疲れも忘れ
息のある間は進めと奮う

ついに堪えず退く敵を
太子河岸に追い詰め撃てば
人の波湧く遼陽城や
停車場辺り逆巻く炎

今や敵軍死に物狂い
我も勤めを果たさで置かず
己が手傷を縛りもあえず
友の屍を踏み越え進む

十日継続戦線十里
史にも見えざる大激戦の
果ては九月の四日の朝
落ちぬ遼陽遼陽落ちぬ

落ちぬ遼陽遼陽落ちぬ
呼べや万歳万歳呼べや
国を挙りて喜び歌い
祝う灯火地上の星か
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作詞 真下飛泉
作曲 三善和気

世に文明の花と咲く
赤十字社の看護婦が
帰隊の勇士送りつつ
長い廊下の物語

元私は京都市の
さる病院に居ましたが
去年の春の桃の頃
国の父より御便り

「お前もよくよく知る通り
この度戦が始まって
まず海戦には勝ったれど
敵は大陸ロシア国

元より仁義の我が軍に
勝利はありと言いながら
御国に生まれた者として
これがうかうか見らりょうか

今朝も今朝とて新聞で
お天子様の御勅語を
読んで思わずこの父は
熱い涙が落ちたぞや

お前の兄がいたならば
兄の少尉がいたならば
この度こそは御天子に
立派な忠義をさせよもの

隣家近所の誰彼も
銃剣下げた男振り
見るにつけてもつくづくと
去年死んだが恨めしい

わしも昔は二本差し
腕も少しはあったれど
六十越えたこの年で
何のお役に立つものか

丁度幸い女じゃが
お前は今年二十一
十五の春から修行して
看護の技もはや五年

兄に代わって御奉公
一時も早く志願せよ
一人の親に孝行の
道は一筋抜かるな」と

噛んで含めた御手紙
読んで私は泣きました
早速これを院長に
見せてお話しましたら

院長様もつくづくと
読んでお感じ下さって
あちらこちらとご尽力
とうとう本望遂げました

本望遂げて小一年
船の中やらこちらやら
敵も味方もお世話して
お別れするも何十度

お別れ申すその度に
立派なお体見るにつけ
例えば花の朝顔を
朝見るような心地して

国の方でも父上が
喜んでいてくれましょう
「皆これ君や国の為
御武運祈っております」と

情に篤い看護婦の
身の上話聞く武夫
「御兄君の御忠義は
私がする」と言い放つ
作詞 佐々木信綱

夜風冷たく篝火揺れて
月は照らせり露営の臥所
血潮に塗れし靴をも脱がず
静かに眠れり数百の勇士

海原越えて故郷の家に
父母共に夢にゃ語る
シベリア千里逃ぐるを追うて
敵の都を夢にゃ囲む

昨日の戦友今宵はあらず
ありし昨日の夢にゃ偲ぶ
金鵄の印妻子に見せて
喜ぶ見つつ夢にゃ笑う

夜霧冷たく虫の音細く
月は照らせり露営の臥所
荒野の上にきびがら敷きて
静かに眠れり数百の勇士
作詞 真下飛泉
作曲 三善和気

ああ我が大山元帥は
もと鹿児島の藩士にて
英雄西郷隆盛と
血を引く従弟の間柄

真や優れて早くより
スイス国に留学し
明治の四年に帰朝して
陸軍大佐となられしが

明治九年に熊本の
敬神党を討ち鎮め
翌年西南戦争には
私情を捨てて勲あり

続いて欧州各国の
兵制視察を遂げられて
やがて陸軍大臣の
重き位に就かれしが

かの日清の戦には
我が第二軍に長として
大連旅順を陥れ
威海衛をも取り給う

かくして次第に累進し
我が帝国の元帥と
衆に仰がれ給いしが
日露の戦争始まって

七月六日に遥々と
陛下の勅を畏みて
満州軍を統べん為
進んで御渡海なされたり

これより以前我が軍は
諸所の戦に勝ちを得て
今や一挙に勝敗を
決せんものと勇躍し

八月夏の末つ方
クロパトキンが死守したる
遼陽城に向かいしが
難無くここを攻め取って

十月半ばの沙河にても
戦線広き大軍を
左に右に神妙に
手足のごとく働かせ

翌年一月下旬には
黒溝台に会戦し
三月上旬奉天の
大戦争に至るまで

児玉対象諸共に
軍略智謀湧くごとく
勝算歴々たなぞこに
玉をば握る事ならで

この度こそは危うしと
汗を握れる世界をば
見事に勝ちを制しつつ
驚嘆させしも幾度ぞ

さ我将軍年既に
耳順に近き老いの身の
御国の為と言いながら
かの満州の二年や

苦労はさせじの御心か
陛下は「既に和はなりぬ
凱旋せよ」と有難き
仰せを下し給いたり

部下の将士に先立ちて
帰るは本意にあらねども
勅命さらに畏しと
奉天城を出で給う

陛下はなおも侍従をば
迎えの為に遣わされ
我が民衆も万歳を
唱えてお迎え申したり

さても陛下の御前に
立ちて戦の事々を
奉告なされし大将の
感慨いかに深からん

げにその名の大山の
揺るがぬごとき英風と
はた温厚の心情は
三つ子もお慕い申すなり

ああ陸にこの大将あり
海には東郷大将あり
並びて国の礎と
世界の上に高からん
作詞 真下飛泉
作曲 三善和気

今日の目出度き凱旋を
迎えん為に勇士等の
長く子孫に伝うべき
名誉を歌い数うべし

まずは我が二十連隊は
明治三十七年の
五月五日に勇ましく
いよいよ征途に上らんと

桂大佐に率いられ
練兵場を後に見て
親兄弟に送られつ
足並み高く進みしが

神戸の港を船出して
大孤山へと上陸し
王家屯なる初陣に
敵騎二百を踏み躙り

血祭り良しと祝いつつ
巌磐嶺分水嶺
折木城と追い迫り
追い落としつつ進軍し

欧露の精を掻き集め
クロパトキンが死守したる
天下分け目の大戦
遼陽城に向かいたり

我が連隊はこの時に
上官長を失いて
死傷は山と重なるも
陣地一寸退かず

将校全て無くなりて
任務はいよいよ重ければ
古兵がすかさず躍り出で
指揮を執りたる隊もあり

やがて起こしし突撃に
堅塁遂に陥りて
第一番に遼陽の
東南門を占領し

我が連隊旗真っ先に
大和颪にはためきて
感状ありし勲功は
いつの世にかは忘られん

次は沙河の会戦に
時は十月十二日
水も寝沈む夜半頃
丸井少将長として

敵が要地と死守したる
三塊石山夜襲して
遂にこれをば奪いしは
類稀なる勲なり

それより後は冬籠もり
春を迎えて揚々と
厚き氷も解くる頃
奉天付近の大戦

この時歩兵と工兵は
万宝山を抜かん為
堅く守れる胡老屯
角面保に打ち向かう

こはこれ三月二日より
七日に渡る六日間
およそ歴史にまたと無き
苦戦の内の苦戦にて

三十門の砲の前
屍は山と重なるも
逆襲数度に及べども
我は一歩も退かず

忠誠無二の我が兵は
鬼神も驚く勇気もて
遂にはここを打ち破り
万宝山を奪うたり

かくて奉天付近なる
この戦も勝利にて
すかさず全軍追撃の
鉾を揃えて進みしが

折しもここに両国の
平和は図らず結ばれて
我が第二十連隊も
凱旋する日となったれば

今日まで所々の戦いに
血をもて錦と飾りたる
高き誉れの連隊旗
迎えて仰げや諸人よ
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